こんにちは、ユニバーサルマナー講師の薄葉です。聴覚障害のある講師として、全国各地のさまざまな企業、自治体、教育機関などで講義を担当しています。


はじめに
叔父の急逝
葬儀会場の控室にて
障害について聞くのは悪いこと?
みんなに伝わりやすい説明とは?
お通夜の席で読経を“体感”
それでも、説法は“見える”と嬉しい
お清めで障害の開示を試みる
最後に

はじめに


2020年の早春から現在まで、日本でもコロナ禍が始まりました。家族や友人、職場の同僚など、大切な方を亡くされた方もいるのではないでしょうか。

本日は私が葬儀に参列した際の体験談をお伝えします。

 

叔父の急逝


つい先日、私は父方の叔父を亡くしました。急逝を告げられ、まず頭に浮かんだことは「まさか」でした。

“人生は坂道の連続”とはよく言ったものです。順風満帆な登り坂もあれば、何をしてもうまくいかない下り坂もあります。私のように、ある日聞こえなくなるような「まさか」もあります。5人兄弟の末弟で、仕事も現役、地元の消防団の副団長として長年活躍していた叔父の急逝も私にとって「まさか」の出来事でした。

私が子どもの頃、叔父はわが家で朝晩の食事を共にしていました。寡黙でしたが、穏やかな性格の叔父は私や弟をいつも優しく見守ってくれていました。そうしたふんわりとした心温まる思い出が今も残っています。

 

葬儀会場の控室にて


コロナ禍の事情もあり、家族葬となりました。
父方の祖父母が生きていた頃には、祖父母を囲む形で親戚一同が集まる機会も多かったのですが、祖父母が亡くなってからは自然と顔を合わせる機会は減っていました。叔父のお通夜は父方の叔父や叔母、いとこ達と久しぶりに顔を合わせる場となりました。

お通夜が始まる前、控室では親戚一同がしめやかな雰囲気の中、ひっそりと小声で会話をしています。誰一人として私に話しかけてくる人はいません。

母が近くを通りかかったので聞いてみました。
「ここにいる人は、私が人工内耳を装着して、また少し聞こえるようになったことは知らないのよね?」
手術は半年ほど前のことなので、弟2人以外はおそらく知らないだろうという回答でした。
会う機会がなかったため私から直接伝えてはいないのですが、両親や弟を通じて、親戚は私が10年ほど前に耳が聞こえなくなったことを伝え聞いていたようです。ただし、私が少し前に人工内耳の手術を受け、聞こえにくいとはいえ、また聞こえるようになったことは知らない様子でした。

親戚同士の集まりに限らず、こうした冠婚葬祭や社交の場などで、いつも歯がゆいような感覚を覚えるのですが、この時も「話しかけていいのか?」「話しかけてはいけないものか?」と気にする様子はありながらも、微妙な距離を感じました。

 

障害について聞くのは悪いこと?


久しぶりの再会なので気兼ねがあったのだろうと思います。または、葬儀の場で聞こえにくい人に大きな声で話しかけなくてはいけないことを気にして話しかけることを控えたのかもしれません。

一般社会ではまだまだ
「聴覚障害のある人に対して大きな声で話しかけなくてはならない」
という思いこみが多く残っているように思います。時々、第一声から突然大声で話しかけてくる方が多いからです。

それらは配慮や親切の気持ちからだと推測しているのですが、障害のある人に対して障害について直接聞いてはいけない、そうした暗黙のタブーが存在していることも日々の生活の中で頻繁に感じています。

障害のある人といってもさまざまですから、もちろんいろいろな考え方はありますが、個人的には、聞くこと自体は悪いことではないと思っています。相手が聞こえないとか、聞こえにくいとか、どういう方法だと会話しやすいかなどはコミュニケーションをとる上で確認が必要な場合もあります。そうした際には遠慮せずに聞いてほしいなと思います。

 

みんなに伝わりやすい説明とは?


いよいよ、お通夜が始まります。
各自が会場へ移動し着席すると、葬儀会社の方から葬儀の進行や焼香の作法などの説明がありました。マスク着用が常態化し聴覚障害がなくても聞き取りにくいことは起こるためか、葬儀会社の方が焼香の作法を実演してくださったのは、非常に分かりやすいと感じました。

以前参列した葬儀では口頭のみで説明があり、口元を読める私はなんとか内容を理解できましたが、お辞儀で下を向かれた際に口元が隠れてしまい、何を説明しているかわからずに困った記憶があります。

実演しジェスチャーを交えながら説明してくださるのは、その場にいる皆にとって非常に親切だと感じました。

画像 焼香の様子

 

お通夜の席で読経を“体感”


厳かな雰囲気の中、僧侶が着席され、いよいよ式が始まります。空気を払い清める仏具が鳴り響き、その音の余韻が残るなか、張りのある僧侶の声が広くない会場いっぱいに広がり、壁や天井に反響し跳ね返ります。10年間音のない世界で暮らしていた私は、久しぶりに読経を聞きびっくりしました。読経の音圧と迫力に思わず体がピクリと反応します。

無音の世界で暮らしていた頃、葬儀は睡魔との戦いの場でした。故人を偲ぶ気持ちはあっても、何も聞こえない中で身じろぎせずに座っていると、不謹慎だとわかっていてもどうしても眠くなってしまうのです。

でもこの日は違いました。読経も写経も経験のない私には読経の内容はちんぷんかんぷんです。それなのに、読経の音声を全身に浴び、叔父 との思い出などを思い出すうちに、いつしか私の目 には涙が溢れているのでした。

葬儀というものは故人のためだけにあるのではなく、故人の人となりをしっかりと思い返し、後に残された人が故人と最後のお別れをするために必要な儀式なのだと、耳や皮膚に読経を感じ、僧侶の一挙一動をつぶさに眺め、お線香の香りを鼻で嗅ぎ、舌で苦味を味わいながらつれづれと感じたのでした。

 

画像 葬式

 

それでも、説法は“見える”と嬉しい


列席者の焼香が終わると、次に僧侶から叔父の戒名の説明と説法が始まります。職業柄、僧侶の説明はとても分かりやすく、声も聞き取りやすくはありましたが、それであっても説法には仏教の専門用語が出てきますし、所々聞き取りにくい箇所もあったので、話をすべて理解することはできませんでした。

このような場合、僧侶が話す内容を紙の資料で用意したり、音声を文字化するアプリを使ったりするなどの配慮があると良いなと思いました。今回は叔父が亡くなったのが急だったことと、胸に湧き上がる感傷に圧倒されて頭がぼーっとしていたこともあり、後から気が付いたことでしたが、もしまたお通夜や葬儀に参列する機会があれば、事前にお願いしてみようと思います。

 

お清めで障害の開示を試みる


通夜の後は “お清め(通夜振る舞い)” です。コロナ禍のご時世では会食を避けることが多いと思いますが、今回は家族葬で少人数だったこともあり、“お清め”をすることになりました。

会食の中頃、喪主のいとこが挨拶周りでお酌をしに来てくれました。通夜前の控室では皆が私に対して腫れ物に触るような対応でした。耳のことが気になるなら直接聞いてくれたらいいのにと思いましたが、遠慮してしまう相手の気持ちも理解できます。いとこの話が聞き取れなかったタイミングで、自分から耳のことを伝えてみました。

「ごめんなさい、もう一度、言ってもらえる?私、人工内耳をしているから、周りの話し声がうるさくて何と言っているか聞き取りにくいの。」

そして髪をかき上げて、人工内耳を見せました。最初は「え?」と驚いた表情をしていたいとこですが、人工内耳を見るとすぐに理解してくれた様子で、もう一度はっきりと話をしてくれました。

聴覚障害は見た目で周囲の人に伝わりません。百聞は一見に如かずと言いますから、補聴器や人工内耳を装着している人は実物を見せてしまうのも、伝える際の1つの手かなと思います。

通夜の帰り道、叔父の人生を考えていました。父の仕事のパートナーであり、良き夫で良き父親でもありました。地域社会の発展に尽力し、自分より周囲の人のことを優先する素晴らしい叔父でした。

人生は「まさか」の連続です。一日一日を大切にし、しっかりと生きていこう。冥福を心から祈りながら、帰路に就いたのでした。

画像 夕日

 

最後に


いかがでしたか。今回は、元々聞こえていて、段々と聞こえなくなって、また少し聞こえるようになった私が葬儀に参列した際の体験談をお伝えしました。

聴覚障害のある人といっても千差万別。聞こえの状態も障害に対する考え方も人によって違います。今回お伝えしたのはあくまで私個人の体験談や考え方ですが、皆さんが聴覚障害がある人とお会いした際のお役に立てたら大変うれしく思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。また次の記事でお会いしましょう!

 

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