こんにちは、ユニバーサルマナー検定講師の薄葉です。講師として全国各地の企業や自治体、教育機関で研修や講演を担当しています。

 

目次


はじめに
私が驚いた、ある1つの言葉
『障害者らしい障害者』は存在しない
人は『好き嫌い』という感情を持つ生きもの
『共感』の落とし穴

 

はじめに


2021年5月に、障害者への合理的配慮の提供を民間の事業者にも義務付ける、障害者差別解消法の改正法が成立しました。今回成立した改正法のポイントは、これまで民間の事業者の「努力義務」とされていた合理的配慮の提供が、国や地方公共団体などと同様に「法的義務」とされた点です。この改正法は、公布日である2021年6月4日から起算して3年以内に施行されます。

民間事業者とは、企業やNPOの代表者だけではなく、その団体に所属する社員や職員も含みます。また、障害者差別解消条例を独自に施行している自治体もあり、例えば、秋田県の条例※は先進的で、合理的配慮の提供者を民間事業者だけではなく、一般市民も努力義務として対象に含めています。

「秋田県障害者への理解の促進及び差別の解消の推進に関する条例」

 

私が驚いた、ある1つの言葉


私は普段、障害者や高齢者をはじめとする社会的マイノリティ※に対するマインドやアクションをお伝えするユニバーサルマナーの講師をしています。また、ユニバーサルデザインのアドバイザーも兼務していますので、仕事柄、多種多様な人たちと出会い、同時に1人の障害者としてさまざまな経験もしています。

今日は私の体験談も交えながら、「共感の落とし穴」についてお伝えします。

「あなたは困っているような障害者に見えない。助けてもらいやすくするために、もう少し障害者らしく健気に振るまった方が良いのでは?」

これは、過去に私自身が言われて、絶句した言葉のうちの1つです。この方はもしかしたら私に対する親切のつもりでアドバイスしてくれたのかもしれませんが、私はこの言葉に疑問を抱きました。

 

※社会的マイノリティとは?
社会の力関係によって、少数派もしくは弱者の立場にあり、社会的な偏見や差別の対象になったり、少数者の事情を考慮していない社会制度の不備から損失や被害を受けたりしている人を指します。

 

『障害者らしい障害者』は存在しない


まず、疑問を覚えたのは「あなたは困っていそうな障害者に見えない」と言われたことです。「困っていそうな」とは、どういった状態を意味するのでしょうか。

講師やアドバイザーという仕事柄、プロとして物事に動じない姿勢を常に求められます。その時の私は「困っていそう」に見えない雰囲気だったのかもしれません。しかし、困っているかどうかは本人が決めることです。それなのになぜ「困っていそうな障害者」というイメージを勝手に作り上げ、「困っていそうかどうか」を第三者が決めるのでしょうか。

また「助けてもらいやすくするために」と「健気に振る舞う」の箇所にも疑問を覚えました。これまで社会は「心身ともに健常で、生活に困りごとがない非障害者(マジョリティ)」を中心とした社会環境が構築されてきた歴史があります。そのため、障害者や高齢者などの社会的マイノリティが生きていく上での社会的障壁が発生しています。

この社会的障壁をなくすために周囲の人へ合理的配慮を求めます。相手にとって過重な負担でない限り、合理的配慮を提供してもらうことは法律においても保障され、今の社会においては一般的になりつつあります。そもそも、社会的障壁が存在しなければ、社会的マイノリティが合理的配慮を提供してもらう必要はないのです。

この合理的配慮を提供してもらうために、つまり「助けてもらいやすくするために」障害者や高齢者が「健気に振る舞う」ことを求められる社会環境や人の意識には違和感を覚えます。

「助けてもらいやすくするために」と「健気に振る舞う」について、言った本人に確認しました。「人はかわいそうな人を見ると助けてあげたくなる。だから、助けてもらいやすくするために、かわいらしく健気に振る舞った方が得策なんだよ」と、それがその方の答えでした。さらに、具体的な方法も尋ねたところ「普段から控えめに振る舞い、サポートをお願いする時は相手の機嫌を損ねないように低姿勢でコミュニケーションをとること」が大事なのだそうです。

障害者といっても、1人の人間である以上、育った環境も千差万別、性格や考え方も異なります。性別や世代も違えば、外見も1人1人が違っています。「障害者らしい障害者」は存在しません。

マジョリティのイメージに合致した障害者だけが助けを得られる条件付きの合理的配慮……。「助けたくなるような障害者として振る舞わなければ助けてあげない」社会から排除されているような、非常に残念な気持ちになります。

 

人は『好き嫌い』という感情を持つ生きもの


しかし、助けてもらえる人と助けてもらえない人が存在していることも事実です。なぜ、困っているすべての社会的マイノリティが分け隔てなく助けを得ることができないのでしょうか。

人には感情があり、当然、好き嫌いもあります。誰だって好きな人には良くしてあげたいし、嫌いな人とは関わりたくない。日常生活の中では、ごく当たり前のことです。

ただし、本来あるべき社会という観点から、障害者をはじめとする社会的マイノリティへの対応を考えた時、それは果たしてインクルーシブな考え方なのでしょうか?私は現在の障害者の置かれている環境と周囲の方との関係性について普段から疑問に感じていることがあります。

ユニバーサルマナー検定では、障害者や高齢者、性的少数者など社会的マイノリティに対する向き合い方をお伝えしています。私は、主に障害者についてお伝えしています。

社会に暮らす多くのマジョリティは障害者と接した経験がありません。ですから、まずは障害者に対する心理的な距離感や抵抗感というマインドブロックを解除することを目的として、ユニバーサルマナー検定では、社会的マイノリティに対する共感を抱いてもらえるような手法を用いてお伝えしています。

 

『共感』の落とし穴


しかし、この「共感」には落とし穴があるように思います。

「共感」は人と人とを繋げ、連帯感を生み出すポジティブな面もあります。誰かと仲良くなる時、少なからず相手に対し共感を覚えているものですし、ビジネスにおいても、例えば、マーケティングの手法として消費者から商品やサービスの支持を得るために、共感の惹起は重要な要素です。

しかし、私は1人の障害者として暮らす中で、時にこの「共感」における負の部分を感じずにはいられないのです。

「相手に共感を覚えているかどうか」は、現状、社会的マイノリティに対し合理的配慮を提供する際の、選別基準の1つになってしまっているように思います。選別は時に、人と人とを分断する要因として働きます。

「共感を覚えている相手だけを助ける社会」は、誰もが生きやすい社会なのでしょうか?誰かが困っている時に、共感の有無に関わらず、誰もが一定の支援を受けられる社会の方が生きやすくはないでしょうか?

障害者と関わってくださる方は心が温かく、障害者を「助けたい」という想いも人一倍強いように思います。そうした強い想いがあるからこそ、この「共感の落とし穴」に陥らないでいただきたいと切に願います。

 

前編はここまで。

後編では
・障害者は可愛がられなければ、生きていけない?
・無自覚の『共依存』関係
・障害は『トランスフォーメーション(変質や変換)』
・最後に
をお伝えします!

後編はこちら