こんにちは、ユニバーサルマナー検定講師の薄葉です。
今回お届けするのは「多様性を知る対談第2弾」です。社会で活躍する障害のある方との対話を通じて、多様性をお伝えします。また、ゲストのライフストーリーを追体験しながら、ユニバーサルマナーについて一緒に考えていただければうれしく思います。
登場人物
インタビュアー:薄葉ゆきえ
…聴覚障害のある講師として「外見からは見えにくい障害」に対する理解推進を目指し、全国の企業・自治体・学校などで講演を行う。人工内耳装着者。
インタビュイー:伊藤芳浩さん
…ろう者。岐阜県出身。名古屋大学 理学部卒。電機メーカーで勤務。マーケティングを担当。NPO法人インフォメーションギャップバスター理事長。コミュニケーションバリアフリーエバンジェリストとして、情報格差やコミュニュケーションのバリアを解消する活動を行っている。DPI日本会議の特別常任委員。
――前回は小学生時の話、教員に感じた課題を伺いました。
大学での手話との出会い
ありがとうございます。伊藤さんご自身の話に戻しましょう。伊藤さんは小学校から大学まで一般校で学ばれたそうですが、伊藤さんが学校生活を快適に過ごすために、ご自身で工夫されたことはありますか?
前回お伝えしたように、小学校では何度かいじめを受けました。しかし、小学校の時に親が買ってくれた参考書がとても役に立った結果学力が上がり、中学校の時に学校で1番の成績をとりました。いじめが悔しくて勉強したというよりは、自然に勉強が進んだという感じです。
今でも覚えているのは、校内テストで1番を取った時に同級生に非常に驚かれ、その噂が瞬く間に学校中に知れ渡り、先輩からあだ名として、伊藤と一等をかけて『いっとう君』と名付けられたことです。
なにか得意なことがある子は周囲から一目置かれるためか、いじめは自然となくなりました。部活(バスケットボール)も頑張り、文武両道に明け暮れた中高生時代でした。小学校とは違い、同級生の障害理解も進んでおり、助けてくれた友人も多かったです。
大学時代はいかがでしたか?
大学は名古屋大学に進学しました。大学では手話との出会いがありました。
手話の習得は大学時代だったのですね。意外です。どのようなきっかけがあったのでしょうか?
大学でろう者の学生たちと出会い、彼らが手話で生き生きとコミュニケーションを行う姿に衝撃を受けたことがきっかけです。それまでの私には聴覚障害のある友人がいませんでした。そのため、手話も知らず、相手の口元を読み取るだけで友人たちとコミュニュケーションを行っていました。
とはいえ、私は聴者ではありませんから、自分のアイデンティティが確立しておらず、モヤモヤとした気持ちを抱えていました。手話を習得したことにより、私はろう者としてのアイデンティティを獲得することができました。
手話との出会いは、私の人生における大きなターニングポイントになりました。手話を習得したことで性格が社交的になり、聴覚障害のある学生が集まる団体に所属するなど活動し始めました。こうした経験は自分の礎になっています。
手話との出会いが伊藤さんの世界を広げるきっかけになったのですね。仕事柄、障害のある方とお会いする機会が多いのですが、学校生活に馴染むのに苦労したり、いじめられて登校拒否になったりというような話をよく聞きます。そうした背景から、自己肯定感が低いまま大人になったという体験談もよく聞くのですが、伊藤さんは逆境の中でも勉学に励まれ、大学時の手話との出会いでご自身のアイデンティティを確立されたのですね。
職場の同僚や先輩、運営するNPOの会員には聴覚障害のある人が多数いますので、周囲の環境や人間関係によっては大変苦労されたという話は、私もよく聞きます。もちろん、私自身もできる限りの努力はしましたが、それよりも両親や友人など、人間関係などの環境面で恵まれていたことが大きかったように思います。
障害のある人に対し、努力が足りないというような心無い言葉を聞くことがありますが、私はそうは思いません。それよりも環境に依るところが大きいのではないかと考えています。
障害を個人の問題のみで考えるのではなく、社会的障壁も含めた視点で考えることが重要ですよね。そして、社会的障壁を低減するために、学校や職場、家庭や地域社会などにおいて、環境の調整を目指す必要があると思います。
※障害の社会モデルとは
ブログ【障害の社会モデルとは?障害について改めて考える】
当時の夢と、大学での情報保障
大学卒業後はどのような職業に就きたいと考えていらっしゃいましたか?当時の夢があれば、教えてください。
私は子どもの頃から、医師になるという夢を持っていました。しかし残念ながら諦めざるを得ませんでした。医師法では、2001年まで、視覚・聴覚・言語等の障害者に対しては医師免許の交付を制限する絶対的欠格条項がありましたので、当時は聴覚障害者が医師になることは不可能でした。
今は改正され、視覚・聴覚障害者が医療従事者になれる道は拓かれましたが、当時は泣く泣く大学の専攻を、医学に近く、かつ入学が可能な物理学科(生物物理学専攻)に変えざるを得ませんでした。
実は、理学部の中でも化学科・生物学科は入学を許可してもらえませんでした。聴覚障害があると実験が危険だからという理由です。当時は合理的配慮の概念がなかった頃なので、どうやってサポートすれば良いかが分からなかったのだと思います。工夫すれば当時でも対応できたのではという思いは今もあります。
現在でも精神障害者、知的障害、発達障害者には相対的欠格条項が残っているので、障害者の職業選択の自由は完全には確保されていないのが現状ですよね。
はい。若い世代の障害者が夢を諦めなくてもよい社会になることを願っています。
ところで伊藤さんは、大学の授業をどのように受けていたのでしょうか?当時、大学で情報保障はありましたか?
私が大学に進学した頃は、聴覚障害者が大学に行くこと自体が珍しく、情報保障はありませんでした。とはいえ、聞こえない私が授業を受けるためには、情報保障が必要ですから、学生ボランティアによるノートテイクを付けてもらえるように大学に交渉しました。
新しい環境に慣れ、勉強についていくだけでも大変なのに、障害学生支援について自ら大学に働きかけるのは時間も労力もかかり、本当に大変でした。交渉には2年以上かかり、4年生の時にやっと実現しました。
私が大学生の頃も、障害のある学生に対する支援は進んでいませんでした。
現在では、授業時のPCノートテイクは8割以上、手話通訳は6割の大学で、学生の要望に応えられるようになったと聞きます。しかし未だに100%の情報保障には届いていません。とはいえ、少しずつ聴覚障害者にも学問の自由が認められつつあるのはうれしいことです。
※令和4年度障害のある学生の修学支援に関する実態調査(独立行政法人日本学生支援機構)
ご家族とのかかわり
伊藤さんは大学進学後に大手の電機メーカーに就職されていますが、職場のお話をお聞きする前に、先にご家族についてお聞きしてもよろしいでしょうか?
はい。私は妻と8歳と3歳の2人の息子と暮らしています。妻と息子は2人とも聴者です。
聴覚障害のある親として、子育てをする際の苦労などはありますか?
両耳とも平均聴力レベルが100db以上の重度難聴なので、補聴器を使用していても音がしていることに気付かなかったり、音声を正確に聞き取れなかったりします。息子達がまだ幼いこともあり、手話もまだまだできないので、日常会話は難しいですね。
妻は聴者で日常会話レベルの手話はできますので、妻がいる時には、息子たちの話を通訳してくれています。とはいえ、将来的に息子2人とは深い話ができる関係になりたいので、8歳の息子には少しずつ手話を教えています。
お子さんに手話を教える際の工夫などはありますか?
まだ、手話自体に興味があるわけではないので、本格的に教えるのは難しいと思っています。ですから、手話に興味を持ってもらえるように、手話の絵本を何冊か用意して、毎日自然に手話に慣れ親しむ環境を整えています。また日常会話の中でも折に触れて手話を使うようにしています。
日常会話の中でさりげなく、手話と接する機会を設けているのですね。パートナーとはどのようなご縁で知り合われたのでしょうか?差し支えなければ、教えていただけませんか。
私はクリスチャン(プロテスタント)でして、妻とはキリスト教会のイベントで知り合いました。
クリスチャンとしてのご経験のなかで、今の活動に繋がっていることなどはありますか?
キリスト教の教えから、私は隣人愛を学びました。長年、障害理解促進の活動をしていますが、まだまだ道半ばだと感じています。正直なところ社会からの無理解という壁にぶつかることも多いです。そうした際に諦めずに活動を継続できているのは、キリスト教の教えが活きていると感じます。
また、NPOを運営していると会員のマネジメントに関わる機会も多いのですが、私はサーバントリーダーを目指しています。人に尽くすことで人が付いてきてくれると信じています。そうした信念の礎となっているのは、やはり、キリスト教の教えなのではないかと自己分析しています。
SODA、CODA、ヤングケアラーの話
ご自身の信仰について率直にお話しくださり、ありがとうございます。家族の話題で思い出しましたが、IGBに聴覚障害者にまつわる家族問題を解決するためのプロジェクトがありましたよね?
はい。『家族をみんなでカンガエループロジェクト』ですね。
『家族をみんなでカンガエループロジェクト』に取り組み始めた経緯について、教えていただけますか?
『家族をみんなでカンガエループロジェクト』は元々、IGB会員の1人に『SODA(ソーダ)の会』を主宰している方がいたのがきっかけです。SODAは『Sibling Of Deaf Adult/Children(シブリング・オブ・デフ・アダルト/チルドレン)』の略語です。ソーダとは、聞こえない・聞こえにくいきょうだい(兄・弟・姉・妹のどの組合わせも含む言葉)がいる聴者を意味します。
その方は、聞こえない弟と育つ中で、周囲の人の対応に違和感を覚えながら大人になったそうです。「障害のあるきょうだいと対等な関係を築きたい」という想いから「SODAの会」を立ち上げました。そしてIGBでも、家族内の課題を解決するためにプロジェクトチームを発足したのです。
聴覚障害者のいるご家庭にはどういった問題があるのでしょうか?
例えば、聴者のご両親が生まれつき聞こえないお子さんを授かった時に、お子さんの障害受容に苦労されたり、どのように養育していくか悩んだりしていると聞きます。逆に、ご家族に障害の理解がなく、大人になってもご家族と良好な関係を築けずに悩む聴覚障害者もいます。
また、親が聴覚障害がある場合、そのご家庭で生まれた聞こえる子どものことを『CODA(コーダ:Children of Deaf Adults)』というのですが、このコーダのお子さんが幼少期から親の手話通訳や、社会との仲介役を担うことを期待され、健全な成育を阻害されてしまう問題があります。
そして、先ほどお伝えしたソーダのように、聞こえない兄弟姉妹が家族にいて、周囲の人からきょうだいの面倒を見るように強いプレッシャーを幼少期から受け続け、ご自身のことよりもきょうだいの世話を優先することを強いられる子どももいます。
コーダやソーダの中には、いわゆるヤングケアラーと呼ばれる子どもたちが多く存在します。そうした家族内のいびつな関係性が長期化し、生活のさまざまな場面において支障が出てきてしまっている現状を改善しようと『家族をみんなでカンガエループロジェクト』では、啓発活動などを通じて取り組んでいます。
家族内の問題は外部から可視化が難しい面もあり、また、家族という濃密で長期的な関係性の中で起こる事象でもありますから、非常にデリケートかつ複雑で、即時解決が難しい問題なのではないかと推測します。
はい、おっしゃる通りです。非常に繊細な配慮が必要になる課題です。障害者(児)への福祉的支援不足により家族に過重な負担がかかり、日常的な心身面でのプレッシャーから健全な家族関係が営めなくなっていたり、周囲の人から障害者の家族であるということで偏見の目で見られたりするなど、二次的な差別に遭うご家族もいます。そのため、障害者(児)やそのご家族だけの問題ではなく、社会環境における課題と言えます。
周囲の人達からの差別や偏見、無理解といった人の意識のバリアや、社会からの支援不足、不備など制度のバリアから起こる問題ということですね。
はい。家族問題は聴覚障害者(児)のいるご家庭だけでなく、あらゆる障害者(児)のいるご家庭の問題です。問題は障害のある子どもの療育だけではありません。家庭内の若者が家族の介助や介護、家事負担のために勉学の時間を十分に取れなかったり、家族の世話などによる心身の疲労から体調を崩してしまったりなど、昨今では社会問題として問題提起されています。
そのため、2023年4月からこども家庭庁が発足されました。今後、ヤングケアラーを含む子どもの権利擁護や家族問題の解決に向けた取り組みが進められていくのではと思います。
※こども家庭庁の設置について(内閣官房)
第2回はここまでです。
次回は「聴覚障害者の転職理由、言語権の話」をお聞きします。